人生に意味のないことなんて1つもないのかもしれないと思った話

人生の意味について

「神様とのおしゃべり」という本を読んで自分なりに考えたことが1つだけある。

この本のネタばらしを少ししてしまうことにもなるのだが、

”今の結果は過去の過程の全てである”

ということ。

 

”全てである”ということは1つだって意味のないことなんてないということ。

何1つ欠けてはいけないのだ。

 

聞くもの感じるもの体験するもの”全て”が私に意味を持たせようとしている。

 

ふと空を見上げたくなった時。

元彼の声が聴きたくなった時。

会社でヘマをして怒られた時。

友人と喧嘩した時。

 

疲れているのか、寂しいのか、聞いてほしいのか、仲直りしたいのか。

こうやって1つ1つに本質の意味を見出せば、本当に私がやりたかったことが見えてくる。

のかもしれない。

詭弁はよして、そういうものだと割り切ってみるのも良い。

”全てのことに意味がある”

そう本には書いてあったけど、本当に自分のやることなすことに”意味”なんてあるのか。

 

自分のやりたかったことが見えてくるってそうどういうことなんだろうと、ここ2.3日頭を悩ませた。

「ナイ頭」でいくら考えてもさっぱりわからなくて、考えるのを遂にやめた。

 

そういうことでいいじゃないか。

そういうことにしておこう。

 

次の日。

丁度私は電車に揺られながら会議の資料を見ていた。

相変わらずの「ナイ頭」で、にらめっこ。

規則正しく響く車輪のリズムを聴きながら、資料と格闘していたころだった。

 

15分ほど経ったころだろうか。

 

しばらくして、急に車内が慌ただしくなった。

車内の人のほとんどが駅に降りるための準備を始める。

気づけば車輪のリズムもゆっくりになっていた。

 

そういえば、昨日本から学んだ”意味を持たせる”ってどういうことなのだろう。

資料をめくる手を止め、また私は答えを探した。

 

ドアが開いて、慌ただしく準備していた人が電車のドア付近に固まった。

レースでも始まるかの如き眼差しは、ここが”東京”であることを私に再確認させ、落胆させた。

 

丁度その時だった。

開くドアの反対側。反対ドアの両端に、人ひとりが入れるようなスペースができた。

 

まるでスポットライトを避けているかのような綺麗なマルだった。

ドア付近のこの空間はなかなか人気の場所らしく、東京の電車内では空いているのをまず見たことがない。

 

私は吸い込まれるようにその空間に足を運んだ。

普段なら絶対に立つはずのない場所だが、その日は足が既に動いていた。

 

ドアの窓からは数えきれない人たちがホームで電車を待っている姿が見える。

”ここからはこんな景色が見えるのか”

私はなんだか得をした気分になった。

 

電車が動き出して、車輪はまた一定のリズムを刻み出す。

 

建物の陰から差し込む朝日に眉をひそめながらも、光で照らされている街全体を俯瞰して思った。

 

”私も大人になったな”

 

小学生の頃、サラリーマンの見る景色はこんな感じなのだろうと想像していた景色そのものだった。

それはまるで、私に「外の世界を見て。息抜きしなさい」と言っているように感じた。

 

意味ないことなんてない。全てのことに意味がある。

そんなことがあって、意味を持たせるというのはとても簡単であることを知った。

というより、気づくもの全てに意味があるのかもしれない。

この仕事はどんな意味があるんだろう。

私の人生の意味って?

大丈夫。

「意味がないのかもしれない」と気づいた時点で意味があるのだから。

その本当の意味がわからないだけでね。

 

とまぁ、そういうことにして1つ1つに意味を見出せば、今君がしていることだって全くもって、無意味なんかじゃない。

そんな意味を見出せない自分の行動でさえ、人生でさえ、いつかの自分が笑ってくれるはず。

 

こうやってまた変わらない毎日に意味を求める。

そうやって生きている。

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